2017年5月28日日曜日

『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を読んで


「ピュリツァ賞、全米批評家協会賞、ダブル受賞作!新世紀アメリカの青春小説」が、この本の帯のキャッチ・コピー。作者はドミニカ系アメリカ人。


読んでいると、どこまでが真実でどこからがフィクションかがわからない。ちょっと眩暈モノの作風である。内容は、1930年から1953年に暗殺されるまでドミニカ共和国を支配したトルヒーヨ・モリナと、その独裁政治に翻弄された一族の物語である。こう書いてしまうと、何かどこにもありそうなお話であるが、そこは南アメリカ文学の流れを汲むもの(「中南米マジックリアリズムのポップ・バージョン」と解説されている)、そんなに素直に読み進められない。



当然日本語訳で読んだが、オリジナル本は英語とスペイン語が半々。しかもそのスペイン語がドミニカバージョンであったり、地方独特のものであったり、俗語であったりで、翻訳も一筋縄ではいかなかったようだ。また、作者はスペイン語に特に英語の注釈は与えておらず、相当読みにくい本であるよう。ディアス氏は「アメリカ合衆国にはたくさんのスペイン語話者がいるって事実に、もうそろそろみんな慣れ始めても良いころでしょう?」と、インタビューに答えた。実際、アメリカは英語を公用語と規定していないのだから、もっともな話だ。



お話は、主人公であるらしきオスカー・ワオから始まる。彼はもうアメリカに住みついており、独裁者の影は希薄になっている。が、彼の母、祖母のジェネレーションは、独裁者から逃れられたとは言え、まだまだその存在(すでに死んでいるとはいえ)を引きずっている。それほど、このトルヒーヨの治世は、ハチャメチャなものだったのだ。それから話は、ワオから母、祖母、祖父の時代に遡り、この独裁者と彼の一族の接点の恐怖を明確に描き出していく(もちろん、写実的にではありませんよ)。








オスカーのオタクぶりを筆頭に、それぞれの家族の個性的で波瀾に富んだ人生が、南米文学らしき幻想的でSF的でおとぎ話的残酷さの中で描かれていく。彼等の、その人生すべてが、トルヒーヨの暴力的治世とリンクしているのだ。と言う事は、ドミニカ人の総ての人生がトルヒーヨに侵されている……今尚、と言う事か。



オスカーのオタクぶりが、翻訳者泣かせの二番目の部分。至る所に、コミック(日本のコミックも含む)、ビデオゲーム(同様)、SF・ファンタジー本からの引用が散りばめられている。その解説だけでも膨大。トルヒーヨの行為を単に今までのような正統的小説で書きすすめていけば、到底ドミニカ共和国の独裁者であるトルヒーヨを描ききれないというのが、作者の意図である。つまり、オタク文化を武器として、まじめに書いていてはかえって浮かび上がらせることができなかったトルヒーヨの残虐性を表現し得たという事か。滑稽に描写された中に、ドミニカの悲惨な時代が浮かびあがる。



蛇足ながら、絶対ハッピーにはならないであろうと思われたオスカーの人生で、最後に思わぬ出来事があったのは、私も本当に心からホッとできた。





翻訳について:



訳者都申幸治さんが「訳者あとがき」で、「多くの新しい試みに満ちた本書を訳すにはたくさんの困難があった」と記している。英語とスペイン語の混在が一番の苦労だったとか。そこで、スペイン語に堪能な久保尚美さんを共訳者とした。オタク的知識も岡和田晃さんの協力を得た。「二人の超人的な努力の結果、日本語版は世界最初の『読んでわかるオスカー・ワオ』になったと自負している。」と表明している。



オオッ、日本人のオタク根性を見た思いだ。



(以前UPしたものを書き直しています。)










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2017年5月20日土曜日

『オイディプスの謎』を読んで


ご存知のソポクレスのギリシャ悲劇『オイディプス王』と『コロノスのオイディプス』をどのように読んだらよいかという事が書かれた本です。



オイディプスのお話は、子ども向きの本で読んだきりで粗筋を知っている程度です。また、わたしが中学生か高校生の時、古代ギリシャやエジプトの話を映画化することが流行っていました。その時、このオイディプスの映画も見ました。ああ、思い出しました。パゾリーニの『アポロンの地獄』です。



ところどころのシーンを鮮烈に覚えています。オイディプスがすべての謎を解き終え、自分が父親殺しで、母親と同衾し自らの子でありながら妹・弟をもうけたと悟った時、自分がしてしまった事に恥じ入り、ピンで自らの目を突いて盲目になります。その時の突かれた目のアップのシーンは強烈でした。なぜこんなにまでも血が流れるのだろうと思って見入っていました。



このシーンは、本ではこのように書かれています。



「一度だけではなく何度も、御手を振り上げられては御目を突き刺されました。眼球から流れる血が、頬を赤く染めた。それも血の濡れた雫が、ぽたぽた落ちるのではなくて、血潮がまるで黒い雨と霰のように、どっと流れ出たのです。」



なるほど・・・・・。







オイディプスは神の宣託である父親殺しと母親との同衾を避けるために故郷を捨て、知らず知らずに実の親元であるテバイに辿り着きます。そこでスピンクスの出した謎を解き、その褒美として女王を娶る事になるのです。実の母とも知らずに。そのスピンクスの謎とその答えは余りにも有名です。



「朝は四本足で、昼は二本足で、晩になると三本足で歩くものは、何か」



「それは人間だ。なぜならば、嬰児は四本足で、成長すると二本足で、老いると衰弱のために杖を使い、三本足であるから。」



子供の頃に本で読んだわたしは、へ~~~、そんなものかと思っただけですが、これには深い意味があると著者(吉田敦彦氏)は指摘しています。



そもそもこのような答えでスピンクスが自分の出した謎を人間に解かれたと恥じて、自らの命を絶つとは考えにくいと。スピンクスが自ら自分の命を絶った理由は、オイディプスが自らを指して「人間だ」と答えたからだと。



オイディプスは父を殺し、自分の母親を犯して子供を産ませるという獣のような行いをしました。つまり四本足の獣です。そして、その罪によって自らの目を突いて盲目となり、杖をついてその後の人生を放浪する事になります。つまり三本足。しかしながら、オイディプスはそのような状態にあっても、二本足である人間の尊厳を失うことなく、自分の罪の償いをしました。そんな同時に一つの体で四本足、三本足、二本足の属性を持つオイディプスが、自らを指して自らの正体を暴露した(自分では知らないうちに)と言うところにスピンクスが驚いて自分から死を選んだということです。





この劇がアテネで上演された紀元前四百三十年頃、アテネは悲惨な時期にありました。ソポクレスはそんなアテネの人たちに向かって、人間の尊厳と言う事をこの劇で示したのだと言うのが著者の主張です。この劇が上演される少し前、アテネは第二次ペルシャ戦争を戦っていたのです。その作戦は、周辺の民に土地を捨てさせ総ての人を城壁の中に囲い込むと言うもの。そのために今まで蓄えた富で周辺諸国から食料品などを買い込み備蓄しました。その交易のために疫病がアテネにやってきたのです。ペスト。また閉じられた場所にたくさんの民衆を囲い込んだ事が災いして、よりペストの蔓延の影響を受けました。



そもそも、この作戦は神の宣託ではなかったのです。アテネはギリシャ第一の都市であるという自負そして自惚れから、神をもないがしろにする傾向がみられました。そこで、自らが立てた作戦ゆえにおのれ自身を窮地に陥れた事と、疫病の流行から人間の尊厳も捨て去り、非道な行為(病人を見捨てたとか埋葬もお座成りに済ましてしまったというような事)に走ったという事実から、アテネの人々は人間としての自信を喪失していました。



そこでソポクレスは「オイディプス」により、どんな窮地に陥っても人間としての品格を忘れてはいけないし、また人間はそのような時にも尊厳を失わないで生きていける存在なのだという事を万人に示したのです。そして、アテネの人々がもう一度人間としての誇りを取り戻して暮らしていけるようにと。つまり、オイディプスは「人間とは何か」のソポクレスの答えだったのです。





感動しました。子供の読み物で読んだお話がこんなに深い意味を持ったお話だったなんて。それから、紀元前四百年の頃の事をこんなにも詳細に語る事ができるなんて。











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2017年5月12日金曜日

『愉楽』の感想文



大変長い本でした。前半は、面白ながらも、ちょっと読むのに時間がかかりました。しかし後半は、あれよあれよという間に、読み進んで行けました。前半は、後半に進むための長い長い段取りだったんですね。前半を丁寧に読むことによって、後半の息をも吐かせぬ大団円に私自身は滑り込むことができたと思います。



内容の話は後にして、周辺事情から書きますと、彼は、ラテンアメリカ文学のガルシア=マルケスによく例えられます。つまり、マジック・リアリズム。私見では、マジック・リアリズムとは、過去と現在そして近未来が混然と一体化しているところに生じるものと思います。



マルケスやリョサを生んだ南アメリカは近未来的近代都市とアマゾン川流域のまだ原始の名残がある地域、そして中世の雰囲気を醸し出しているその中間地帯から成り立っています。決してヨーロッパの「洗練された都会」からは生まれないもの。そして、著者閻連科の中国は、やはり高層ビルが立ち並ぶ北京、上海を始めとする近未来的大都会と、山奥の少数民族が暮らす地域、そして、まだ中世を残す農業地帯が見られます。この物語は中国の革命後の世界から現代までのお話。しかし、読んでいると時々、中世のあるいは日本の明治時代の話ではないかと錯覚させられてしまいます。



あるいは、中国映画の『山の郵便配達人』が彷彿とされます。この郵便配達人は、徒歩で山の頂上までそこに住む少数の人々のために、何日もかけて郵便物を配達するのです。が、配達人の背景に、高速道路を駆け抜けて行くトラックなどが見えるんですよ。徒歩で郵便物を配るということが、同じ現代に同居しているんですね。日本のどこかのテレビ局も配達人の追跡調査の番組を作っていましたよ。スイマセン脇道に逸れてしまいした。



もうひとつマジック的な事は、巻や章が奇数しかないこと。第1巻の次は第3巻、第1章の次は第3章が続きます。「訳者あとがき」では、これも内容の魔術性を強調するのだと言っていますが、それはどうなのかなあ。ちょっと瑣末なこととも思いますが。中国の独特な文化に関連づけられているかもしれません。それから、お話の中で「注」が入ります。その注は、「くどい話」という章にまとまっています。例えば、方言の説明などがあります。しかし、しばしばその「くどい話」の中にも注が付き、「くどい話」の「くどい話」の章があります。そこでは、中国の革命事情とか歴史的な話も書かれていて、本文より長く、それだけで読める話となっていたり、「う~~~ん」と唸っちゃうほど、話の補完になっていたこともありました。






ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は、女族長が百年に渡り家族を束ねて行く物語でした。この『愉楽』も女の長が、一つの村を引っ張っていくお話です。しかし、『長』と言っても、このふたりの女性は何か罪悪感のようなものを持ち続けています。長であるが故の「皆を幸せにしなければならない」という責任感に基づく、自分の力不足そして皆に対する申し訳のなさでしょうか。



『愉楽』の女族長は茅枝という名です。そして彼女を長とする村は、障害者ばかりの村。この村の成り立ちには伝説があるのですが、早い話が、邪魔者扱いされる障害者たちが(めくら、ちんば、つんぼ、おし、下半身不随,腕無し、などなど差別用語満載ですが、そのまま本にも記述されています。これらの言葉なしにこの本は成り立ちません。)、「その村では皆が障害者でどんな者でも受け入れてもらえる」と、どんどん集まってきたということでしょうか。



茅枝は、革命戦士でした。彼女が所属していた紅軍が戦闘で破れ、負傷者は自分の村に帰ることになりました。その時、彼女は孤児で自分がどの村の出身かわからなかったのです。それで、ひとりでそれらしき村に向かっている時に、凍傷で足の指をなくし、また崖から落ちて片足の骨を折りびっこになってしまいました。その時、この障害者の村「受活(楽しく暮す)村」を見つけ留まることにしたのです。彼女が紅軍の戦士ということで、皆も彼女を長として迎え入れたのでした。つまり、彼女の栄光のために障害者である「我々」も、県から尊重され幸せに暮らせると言う彼らの読みです。ここまでが、第一巻の第一章です。ですから、この物語の全てをとても書き記すことはできません。



で、お話は、大きく分けて二つの本流があります。ひとつは、この茅枝のこと。彼女は革命戦士であったために公社(共産党の人民は、総てを分け合いお互いに助け合うのだという組織)に入社することが皆の幸せであると思い、入社します。しかしその後、そのために村は不幸の連続に見舞われます。それで、彼女は入社した事を後悔し、彼女が死ぬまでには必ず退社して見せると誓うのです。さて、それは上手く行ったのでしょうか。村はどんな不幸な目にあったのでしょうか。



二つ目は、県長の柳さんの野望。彼は、県長として立派に県を治め、県民を幸せにし、その上の段階の出世を目指します。そのためにロシアからレーニンの遺体を購入し、県の財産にし、世界中からの見学者を集め金儲けをし、県を豊かにしようともくろみます。しかし、レーニンの遺体を買うには、莫大なお金が必要です。それのため受活村の障害者たちを集め、絶技団を結成し、巡業してお金を得ようと計画します。



ここまでもお話が前半の部分です。さて、柳県庁の運命はいかに、受活村のめくらやちんばの運命はいかに。こうしてお話は後半になだれ込んで行きます。柳県長と茅枝は、どういうようにリンクし、どう共鳴し合い、どういう結末になだれ込んで行くのか。興味が湧きましたら読んでみてください。





最後に、著者である閻連科は「リアリズム」をどう考えていたのかについて。彼は、「後記に代えて」の中に、「イズムまみれの現実からの超越をもとめて」という一文を書いています。彼は、「今の状況からすると、リアリズムは文学を謀殺する最大の元凶である。」と言います。



つまり思うに、リアリズム文学が現われた時は、それなりにリアリズムが現実に存在していた、真摯な人間の営みであったでしょう。が、現時点では、人間生活はあまりにも自然からかけ離れた次元にあります。人間は、自然の中で営んできた。大地や海や山とともに。今や、人は自然の中から何も産み出していない(「何も」は言い過ぎだが。)。第3次産業が、主流の世の中です。人間はもはや「リアル」なものを扱っていないのです。



彼はこう書いています。



どうか「現実」とか「真実」とか「芸術の源泉は生活」だとか「生活は創作の唯一の源泉」などという、とりとめもない話を信じないで欲しい。事実、あなたの目の前には真実の生活など並べられていないし、どの真実も作家の頭を通った後はすべて虚偽となってしまっているのだ。



だから、



現世界に、もはやリアリズムなどない。芸術にリアリズムを求めるのは「ないものねだり」という事でしょうか。







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2017年5月7日日曜日

囲碁について


囲碁サロンに通っています。そこでの友達が、「おもしろい所があるよ。1時から5時まで囲碁打ちほうだいだよ。」と言うので、ホイホイとついていきました。

火曜日に待ち合わせをして、そこに行くと、あれよあれよという間に、そのクラブの会員になってしまったのです。と言って、別段「秘密結社」とか「新興宗教」でもないので良いのですが、ただ、そこに入ると囲碁サロンの方に行くのを減らさなければいけないので…。人の持ち時間は限られていますからね。

そこは、囲碁同好会と言った感じのところです。特定の先生はいません。どうも高段者の人が一人いるらしく、皆はその人のいう事を「はい。はい。」と聞いています。わたしは、まだその「先生」と対局していませんが、四段の人とはお手合わせしました。

「四子置け。」と言うので、「今まで、どんな高段者の人とも三子で打っています。勝てませんけど、互先の練習のためです。」と言うと、「それはだめだ。囲碁は勝つ為にやっているのだから、勝てる数の石を置くように。」と。

その場は素直に従いましたが、ちょっと考えてしまいました。わたしは、「勝つ為に囲碁を打っているのだろうか。」と。もちろん大会とかに出場しているなら勝ちたいです。しかし、ふだんの練習の時、わたしはどう思っているのだろうか、と。

考えてみると、簡単に勝てる相手と打って勝っても、何も面白いことはなかった。全然勝てないような相手で、そしてもちろんのこと負けても、何か得るところがあれば、その方が良い。その反対もあります。下手(したて)の人でも、良い碁が打てたなあと感じることもあれば、上手(うわて)の人でもなんか「スカスカ」って感じの時もあります。







囲碁サロンに入る前、棋院の囲碁教室に通っていました。一年間です。そこは、プロ棋士の先生が教えてくれます。生徒は十名ほどでした。女性ばかりのクラスで、ここの人たちは、他の人と打たないのです。まあ、家でご主人と打つとか…、といった程度。

その中で一人、囲碁の勝負ではなく、囲碁の研究ばかりしている人がいました。わたしとは、2~3回、打ってくれたのですが、「囲碁の対局がこんなスリリングなものとは知らなかった。」と言いましたが、だからその後にわたしと打つというわけでもなく。わたしは、そこで対戦する相手が見つからなかったので、やめてしまいましたが、今になって、「それも有りか。」と思えたのです。

つまり、わたしも対戦相手に勝つ為に囲碁をしているのではないとわかりましたから。勝負は相対的なものです。誰が誰に勝つかというように。それも大事でおもしろいですが、求めるものはやはり「絶対的な勝利」ではないでしょうか。碁の理論を追究し続けることです。

という事で、またまた、わたしはどのように囲碁を追究していけばいいのかと迷い始めました。と同時に、「人に会いたくない病」が出てきたようです。しばらくは、成り行きに任せて、進んで行く所存です。






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